「怒る」ことと「怒らない」こと

精神

怒ることはよくないことであると私は思っています。

周囲の気分も悪くなりますし、怒っている自分の気分すらをも悪くなってしまいますよね。

けれどもその反面、人間にとって、怒ることは自然なことでもありますし、時には怒らなければならない場面もあるだろうと思います。

それは、自分の身体、名誉、財産などを守らなければならないときです。

既に自分は怒りが湧いてきたときに、怒ろうと思えば好きに怒れる自信のある方は、個人的には先の理由から、自分の感情をコントロールし、なるべく怒らないようにする必要があるかと私は個人的に思います。

しかし、世の中には怒りたくても怒れない人が少なからずおり、そういった人はまず「怒れるようになる」べきであるということについて書いていきたいと思います。

怒りたくても怒れない人

世の中には怒りたくても、怒りを外部に表明できない人というのが、少なからずいると思います。

過去の私がそうでした。

過去の私は、怒りを感じていても、それを外部に表明することはできませんでした。

私の場合は昔、兄から長期に渡る嫌がらせを受け、キレそうな心理状態になったことがありました。
しかし、キレることが怖かったので、勇気を出して、言葉を使って兄に怒ったというエピソードがあります。

外部に表明するということは、私に怒りを覚えさせた対象(人)に対して、直接怒りをぶつけるということです。
これは、ある程度怒ることが出来る人にとっても、なかなか難しいことであると思います。

たとえば、政治家の不正のような、多くの人が怒りを感じており、社会的に怒ってもよいとされていることに対しては怒ることは簡単でしょう。
なぜならば、それは多くの人が共感していることであるからです。

けれども、目の前の生身の他人に対して怒るとなると、難易度が上がってしまいます。

なぜならば、怒ったら「怒り返されてしまう」可能性が高いからです。

そしてそれによって精神的に傷ついてしまう可能性が高いからです。

もしかすると、相手から暴力を振るわれてしまう可能性もあるからです。

私も兄に勇気を出して怒ったときは、暴力は振るわれませんでしたが、怒り返されました。
けれども不思議と自分が思っていた以上には傷つきませんでした。

ただ、後でそれを根にもって仕返しされるのではないかという恐怖がありましたが、幸運にも、仕返しされることもありませんでした。

以上の理由により、目の前の他人に対して怒るということは、難易度の高いことであると思います。
そしてそれは、先に述べた怒りを外部に表明できない人であるならば、尚更そうでしょう。

怒れるようになるべきである

怒らないとキレてしまう可能性がある

けれども、怒りを外部に表明することのできない人は、最終的には目の前の他人に怒れるようになるべきなのではないかとも思います。

その理由を、説明していきたいと思います。

怒れない人が怒るべきであると思う理由、それはいつかキレる可能性があるからです。

そしてまた、もしキレなかったとしても、心が病んでしまうことは確実であると思われるからです。

まず、キレる可能性があるという話ですが、怒りの感情というものは、抑圧していたらなくなるというものではありません。

抑圧しているものは、心の奥底に堆積されてしまいます。

常日頃から怒ることのできる者は、怒りの感情を適度に発散することによって怒りの感情を堆積させることを回避させています。

しかし、怒ることのできない者、そして、本人にその怒りをぶつけるという方法以外であっても、怒りを発散する場所をもち合わせていない者は、怒りの感情を堆積させてしまうことになります。

そしてその結果、怒っているけれども、もうこれ以上我慢出来ないという状況に置かれてしまった場合、空気を入れ過ぎた風船のようにキレてしまうことがあります。

昔よく、テレビで少年犯罪を起こした少年の印象について語るインタビューで、「大人しい子だった」というインタビューを聞きますが、大人しくて、普段怒ったこともなく、怒り方が分からないからこそ、どこかで爆発して、法に触れる行為をしてしまうのでしょう。

必要に応じて適度に怒れる大部分の人は、適度に怒って発散しているからこそ、キレることもないのでしょう。

病んでしまう可能性もある

また、私は怒れなかった人とはいえ、ここまでひどい症状ではなかったのですが、世の中には、自分の中に怒りの感情を認めるやいなや、それを「よくないもの」であると感じ、自分の中に抑圧してしまう人もいるそうです。

そういった人の例は、中島義道氏の『怒る技術』の中に載っていたと思います。
というか、この記事自体が『怒る技術』を元に書いているようなものなのですがね。
そして、中島氏のこの本と出合うことによって、兄に怒る決意もついたのですが。

しかし当然、抑圧されたものは消えてしまうわけではありません。
抑圧されたものは無意識の領域へと追いやられてしまいます。

そして無意識に追いやられたものは、意識に気付いてもらおうとして、意識の壁を叩きます。
その、意識の壁を叩かれるという作用によって、ある人は病んでしまいます。

M・スコット・ペックの『愛すること、生きること』の中にも、カウンセリングを通して過去の怒りが発掘されるという症状が出ていますね。

そういう人は、まずは怒りを感じることは悪いことではないという認識をもち、自分の中に怒りの萌芽を認めることが出来たのならば、それを大切に育てる必要があるかと思います。

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なぜ、怒れなくなるのか

では、適度に怒ることのできない人は、なぜ、発生してしまうのでしょうか。

私も昔は怒れない人でしたので、私の例を挙げてみることにしましょう。
勿論、私の挙げた以外の理由もあるのかもしれません。

私の場合は、元々内向的な性格である上に、子供の頃は周囲の大人の言う規範意識を遵守しようとする傾向が強かったようです。

つまりは「怒ってはいけません」「他人にやさしく」といった、規範意識を遵守しようとしていたのです。

そしてなぜ遵守しようとしていたかというと、私はHSP兼発達障害であり、(昔はそのことにも気付いていなかった)周囲の人となんとなくズレているところがあり、しかも不器用であり、どうしようもなく生きにくさを感じていたからです。

なんとなく、周囲から受け入れられていないという感覚がありました。
だからこそ、「周囲に受け入れられたい」という思いを強くもっていました。

そしてその頃は、「正しい人間であれば周囲から受け入れられるかもしれない」と思い、とにかくその頃は、大人の言う「正しさ」にこだわり、それを遵守しようと考えていました。

しかしそれを、頑なに遵守しようと考えていた結果、私は怒れない性格になってしまったのかもしれません。

このように、怒れない性格の人は、内向的な性格かつ、何らかの理由により、社会的な規範意識に対するこだわりの強い人なのではないかと想像します。
もしくはどちらか片方の理由なのか、他にも理由もあるのかもしれませんが。

勿論そういった「怒ってはいけない」という規範意識が悪いものであるとは思いません。

ただ、少数の人々は、そういった規範意識を盲信し過ぎるがゆえに、その規範意識が害悪となってしまっているのです。

おそらく「怒ってはいけない」という大人は、無意識的にではあるにせよ、そう言われた側がある程度その言いつけを破るという前提で言っているのだと思います。

そして、言われた側も、そういった大人の言葉を取り立てて真剣に聞かずに、適度に破り、適度に怒りながら成長していくからこそ、怒るべきときに怒れるようになるのではないかと思います。

したがって、真面目な人は、その真面目さ故に怒れなくなってしまったのかもしれません。
真面目であることは良いことであると思いますので、真面目であることが悪いと言うつもりはありませんが。

「怒れる」ことから「怒らない」ことへ

というわけで、私も怒ることはよくないことであるとは思っていますが、しかし人間である限り、「怒る」ということは自然なことであると思いますし、私が兄に嫌がらせを受けていたときのように、自分が怒らなければ解決できない問題に直面することも生きていればあるのではないでしょうか。

したがって、怒らないことはよいことではありますが、よいことではあったとしても、

怒れない
 ↓
怒れる
 ↓
怒らない

という風に、必要に応じて怒ることは出来るけれども、その上で「怒らない」という選択をすることが大切なのではないかと思いました。

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