資本主義社会の成り立ちと現在

お金

はじめに

現在世界の多くの国には資本主義社会が浸透している。

そして、資本主義社会は競争を原理とする内部構造をもっている。
いわばその社会の構成員全員が「選手」となる社会であり、競争に勝つことができればその恩恵を享受することが出来るが、負けると貧しい生活を強いられる残酷な構造であるということができると考えられる。

そして競争を原理としているために、経済や軍事の面で急速に発達し、飛びぬけた強さをもつようになるため、共同体社会はとても太刀打ちできず、赤子の手をひねるように滅ぼされてしまう。

また、岸田秀曰く「資本主義的人間とは、共同体を失って孤立したバラバラな個人であり、労働と、労働によって得られる金銭を介してしか世界と、そして、他の人々と繋がることができない」(*1)ようである。

たとえば、私はお金を持っていなければ、友人と遊ぶことも出来なくなるであろう。
経済的に苦しい状況下にあると、次第に交際費を払うことも出来なくなり、友人との関係も次第に希薄になっていくと考えられる。

このように、人と人との繋がりですら金銭を介してしか行えないという点も、資本主義社会の残酷な一面であると考えられる。

では、なぜこのような資本主義社会が世界を蔓延するようになったのか、その過程について岸田秀の『唯幻論大全』を参考に解説していこうと思う。

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*1 岸田秀『唯幻論大全』

資本主義社会の成り立ち

ピューリタンから始まった

なお、岸田が初めに紹介しているのはM・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(大塚久雄訳)が説いた説であり、最初は岸田が紹介している範囲内でのヴェーバーの説を紹介することとなる。
まず、初めの説明は『唯幻論大全』からの引用から始める。

資本主義社会を作ったのはピューリタン達であるが、彼らは勤勉と節約を旨とした。自分の仕事を何らかの世俗的目的のためではなく、神から与えられた「天職」(Beruf)と考え、信仰生活の勤めとして自己目的的に遂行した。働くために働いた。そして、禁欲的であったから、働いて得たお金を生活の楽しみのためには使わなかった。彼らのこのような生活態度は、中世の修道院における修道士の生活態度から受け継いだものである。

岸田秀『唯幻論大全』

修道士は元々世俗との関係を絶ちながら禁欲生活を送っていたのだが、ピューリタン達は俗世間で同じような生活を送るようになった。
俗世間で勤勉かつ禁欲的な生活を送ると、働いて得たお金を使わないため、必然的にお金が貯まることとなる。
そして貯まったお金を仕事を増やし、さらにいっそう働くために使うことになると、必然的に次々と事業を拡張する産業資本家になってしまうことになる。

そしてこのような働くために働くというメンタリティ、つまり資本主義の精神が中産階級に浸透し、さらに労働者階級にまで浸透し、ある社会を構成する人々の多くがこの精神をもつようになると、ここに資本主義社会が成立する。
岸田曰く資本主義とは世俗化されたキリスト教であり、資本主義の精神のもち主とは世俗化された修道士、世俗化されたキリスト者である。

植民地化が必要な理由

しかし、資本主義社会が出来たところで一つ問題が発生してしまうこととなる。
それは、資本主義の精神のもち主は、作った製品を消費しないため、それが原因で資本主義社会が行き詰まってしまうことである。

そこで、たとえばイギリスがインドを植民地にして、インドの織物職人の腕を切り落とし、その伝統的な家内織物産業を潰し、インド人がイギリスの織物製品を買わざるを得ないようにした例のように、他国民に作った製品を消費させるために、資本主義国家には植民地が必要となる。

つまり資本主義国家とは、自国民が働きに働いて作った製品を自国民は消費しない国家、あるいは自国民が消費する必要量をはるかに超えた量の製品を作る国家ということができる。

岸田は資本主義の精神とは、生きるために必要でないのに働いていないと気が済まないという一種の病気であると主張しており、その根拠として、先に挙げた労働と、労働によって得られる金銭を介してしか世界や人々と繋がることができない症状が現在世界に蔓延しているという例を挙げている。

性がどのような役割を演じたか

ここまでが、主に岸田の紹介したヴェーバーの理論であるのだが、ヴェーバーが説く資本主義社会が出来る過程の中には、性に対する言及がなかった

しかし、キリスト教ほどセックスに対して敵対的であり、セックスにこだわった宗教はほかにないのだから、そのキリスト教の中でも特にセックスに関して禁欲的であったピューリタニズムが資本主義へと世俗化されてゆく過程において、セックスという要因が大きな役割を演じていないはずはないというのが岸田の主張である。

かつて修道士は神のために働いていた。
しかし、神が死んで以降、近代人は何のために働いていたのか。
その答えが「恋のため」「セックスのため」ということである。

この「セックスのため」という項目が、岸田が主張したいメインの項目のようであり、ヴェーバーの理論よりもはるかに多くの頁を割いているのであるが、ここでは簡単に説明しておくことにする。

要するに、先にも述べた通り、資本主義的人間(男性に関して言えば)の働く動機はセックスのためなのである。
そしてそれは、神への信仰の対象を、恋愛や性に入れ替えたものである。
その社会は、無料セックスを撲滅した社会であった。
つまり、男性は女性と結婚するために働き、女性は男性に養ってもらうために結婚までは処女を貫き通す社会であった。
売春も、男性のはけ口を失った性欲を満たすために社会の必要悪という形で存在していた。

無視されていた女性の性欲

また、女性の性欲は無視されていた
なぜならば女性に性欲があり、無料でやりたがっているという事実がもしあるとするならば、それは男性がセックスのために働く資本主義社会にとっては不都合な事実だからである
また、無料でセックスが出来るとなると、男性がセックスのために働かなくなるという点に関しても、女性に性欲があるという事実は、資本主義社会にとっては不都合な事実なのであった。

近代の資本主義社会では、性的な事柄は厳しく禁じられていたため、男性はとにかくやりたがっていたようであるし、女性は結婚前に簡単にやらせてしまうと「セックスをする」という男性の目的を叶えてしまうことになり、結婚前に男性に捨てられる可能性があったため、そして、その後売春婦に転落してしまう恐れがあったため、簡単にやらせない傾向があったようである。
また、昔は今ほど簡単に離婚できなかったことや、女性が資本主義社会で自立していく方法が今ほど確立されていなかったことも、女性が「簡単にやらせない」ことを後押ししたのであろう。

とにかく初期の資本主義社会とは、男性がセックスのために働く社会であったようである。

しかし、資本主義が爛熟し、豊かな社会が実現するにつれて、この社会構造に人々は徐々に居心地の悪さを感じ始め、性解放・性革命がアメリカを皮切りに起こったようである。
アメリカは過激に性解放を行ったのに対し、資本主義以前は性に対してそれ程厳しくなかった日本は、性解放の波が日本に押し寄せてきた後は、性的なことに関しては資本主義以前の姿に完全にではないにせよ、ある程度戻っただけという結果に落ち着いたようである。

ここまでが、資本主義社会の成り立ちから現代に至るまでの大まかな道筋である。

今は何のために働く?

ここで一つ疑問が生じる。

ピューリタンは神のために働いていた。
そして、性解放以前の資本主義的人間は性のために働いていた。
では、性解放以後の現代人は資本主義社会の中で何のために働いているのかという疑問である。

岸田は資本主義社会の労働とは、奴隷労働のようなものであると言っている。
たとえば「近代以前の農民や職人は、たまにはくたくたになるまで働かなければならなかったときもあったかもしれないが、そういうときでも、少なくとも、いつ働くかを決める自由はあったし、休みたいときに休んでよかった」(*2)ようである。

そして、その奴隷労働は強制されていたわけでも脅迫されていたわけでもなく、自発的にしたことであるらしい。
勿論それは「性」のためにである。

しかし性解放によって、その目的が瓦解した今、人々は何のために働いているのであろうか。

色々と調べればもしかすると何らかの目的が発見できるかもしれないが、さしあたっての目的は当初の労働の目的である「生きるため」ということにしておこうと思う。
「生きるため」という目的ならば、動機としては弱いのかもしれない。

しかし、一旦資本主義社会が浸透し、金銭を介してでしか世界や人々と関わることができない人間が量産されてしまったため、元の生活にはもはや戻れなくなってしまったのかもしれない。
その結果資本主義社会が形骸化しながら続いているのかもしれない。
働かなければ「何か大変なことが起こりそう」なので、働くことをやめることが出来ないのかもしれない。

また、資本主義社会が爛熟してゆくにつれて、人々の間に経済格差が出来てしまったため、将来の不安を拭うために働いているというのもあるのかもしれない。
資本主義的人間とは、金銭を介してしか世界や人々と関わることが出来ないのならば、金銭が失われるということは死活問題となってしまうため、一生懸命働いているのかもしれない。

*2 岸田秀『唯幻論大全』

最後に

ここまで資本主義社会が出来る過程と、出来てからのことについて説明しましたが、なぜ、説明したかと申しますと、現在の資本主義社会に対して、私はある程度息苦しさを感じているし、他にも息苦しさを感じている方がいるのではないかと感じたからである。

たとえば、富や既得権益の独占という問題もありますし、私の場合は一定の時間、一定の場所に縛られ、他人に決められた自分ではよく意味がわからない一定の仕事をしなければならないという資本主義的な働き方に対して多少なりとも苦痛を感じてしまうというのがある。

しかし、資本主義の歴史を紐解いたからといって、資本主義以前に戻れるわけではない。
ただ、私を含めある程度の人間を苦しめているだろうと思われるからこそ、その苦しめているものがどうして出来たのかについて関心をもたずにはいられなかった。

それを知った上で今後どう生きてゆけばよいかを考えていきたいと思う。

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