神田宏大『野崎観音の謎』レビュー

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先日は佐藤宏明さんの、『躁鬱病 私の記録』(柘植書房、1988年)のレビューを書き、その記事の中で神田宏大(かんだ・ひろお)牧師の名前を何度も出したわけですが、今回はその神田牧師が出版した『野崎観音の謎』(文芸社、2008年)のレビューを書いてみたいと思います。

佐藤宏明『躁鬱病 私の記録』レビュー【神田宏大牧師】

野崎観音とは

隠れキリシタンの寺か!?

この本は、野崎観音の通称で知られている、大阪府大東市野崎にある寺院・福聚山慈眼寺(ふくじゅさんじげんじ)が主なテーマとなっています。
慈眼寺は曹洞宗(そうとうしゅう)の寺であり、本尊に十一面観世音菩薩が祀られています。

この寺は1565年に戦乱により全焼していたものを、青巌和尚(せいがんおしょう)が1616年に建て直したそうです。
しかしながらこの青巌和尚の氏素性は全く分からないそうです。
氏素性が分からないということは、当時知られてはまずい人物であったのかもしれません。

そして「隠れキリシタンの寺か!?」というサブタイトルにもあるように、慈眼寺は元々は隠れキリシタンの偽装礼拝の寺院だったのではないかということが書かれています。

その証拠の一つとして、表紙の写真にもあるように、慈眼寺の鐘の中に十字架が彫られているのを見ることができます。
もちろんただ十字架が彫られているだけでは、これは偶然ついた傷なのかもしれないとも思うかもしれません。
しかし、ただの偶然とは思えないという根拠もあります。

それは、龍尾寺(りゅうびじ)の鐘の中にも十字架が彫られているという事実、そして野崎観音と龍尾寺には色々と共通点があり、その一つが野崎観音と龍尾寺の鐘を作った作者が同一人物であるという事実です。
野崎観音の鐘の十字架は神田先生が見つけたものですが、龍尾寺の鐘の十字架は、郷土歴史研究家の今村與志雄(いまむら・よしお)さんが見つけたようです。

参考(外部リンク):野崎観音にあった十字架

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紙屋和三郎

そしてまた、野崎観音には「肥前国平戸住 紙屋和三郎」と書かれている常夜灯があります。
この紙屋和三郎について神田牧師が調べてみたところ、該当する人物がいなかったそうです。

それに対して今村さんが、「こんなん言うたら怒られるけどな」と一言断った上で、灯籠を寄付できるくらいの金持ちを調べても出てこないということは、実在する人物じゃないと思うと言っていました。
そして名前の紙屋和三郎は、

「紙」神様の「カミ」
「屋」ハレルヤの「ヤ」
「和三」「三位(さんみ)一体の神」
「朗」「僕(しもべ)」

で、「神様を褒め称える僕」という意味でつけたんじゃないかと言っていました。
これはあくまでも根拠のない話であると思いますが、すごく印象に残りました。
この動画の26:18ぐらいのところで言っています。

河内は隠れキリシタンの聖地?

そして、日本のキリシタンといえば九州というイメージをもちがちでありますが、この地(野崎)は隠れキリシタンの聖地だったのではないかということが書かれています。
けれども物的証拠は出てこない。そして出てこない理由は、物的証拠が出てこないくらいに弾圧が激しかったからなのではないかなということになります。

しかしながら最も古いキリシタンの墓碑は、2002年以前までは河内(かわち)の八尾市から発見された『満所(マンショ)』の墓であり、2002年には四條畷(しじょうなわて)市で田原(たわら)城主『礼幡(レイマン)』の墓が出土されました。

参考(外部リンク):中世のユートピア 大東市野崎!!野崎まいりはイースター祭??

これは神田先生の出ている動画からの情報でありますが、海外の文献では野崎周辺はキリシタンの聖地であったと書かれているが、日本の文献には書かれていない、または物的証拠があまり出てきていないというギャップが気になったのも、神田先生がキリシタン研究を始める動機の一つであるようです。
そして最も大きな動機としては、迫害の強かった時代のキリシタンの叫びを代弁するためであるようです。

地獄谷からハライソ(天国)へ

慈眼寺の寺の境内の小字名(こあざめい)は「波羅奈沢(はらなさわ)」もしくは「ハライザオ」であり、これは「ハライソ(キリシタンの言葉で天国)」がなまったものであるという可能性が高いと考えられます。
そして、野崎観音南門の石段を降りたところにある地域の小字名が「地獄谷」といいます。

とすると、下は地獄で、石段を上に昇ると天国に行った聖徒に会える八幡山(やわたやま)ということになります。
この「地獄谷」という小字名は、昔、神田先生が慈眼寺の一峰(いっぽう)和尚から聞いたものです。
その小字名を聞かされることによって、神田先生は、「波羅奈沢(はらなさわ)」もしくは「ハライザオ」は「ハライソ(天国)」が訛(なま)ったものであるという確信をもたれたようです。

そして先程名前の挙がった八幡山ですが、ここは昔から罪人の処刑場であり、過酷な弾圧と迫害によって捕らえられたキリシタンたちも、犯罪人とともにここで殺され、殉教した場所であると語り伝えられています。
野崎観音は、この「聖地」ともいわれる処刑場に向かって礼拝できる角度に本堂があります。
したがって野崎観音で手を合わせるということは、キリスト教の偽装礼拝を意味するのではないかということになります。

そしてなぜ偽装礼拝という回りくどいことをしたかというと、弾圧の激しい時代は、キリシタンであることが発覚すると、家族一同はもちろん、五人組制度の下に連帯責任として向こう三軒両隣の全員が処刑される時代であったからです。

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紅沢家伝承の三か所

野々宮神社

この八幡山ですが、ここは旧家の紅沢(こうざわ)家「最も重要な場所だ」と伝えられている三か所の中の一つであります。
残りの二か所は、野々宮神社と、三箇城(さんがじょう)となります。
この三か所を地図上で結ぶと正三角形、つまり「父・子・聖霊」なる「三位一体の神」を表すシンボルとなっています。

こうした回りくどい方法で伝承が伝えられているのも、子供がポロリと「うちはキリシタンです」と言ってしまうことを防ぐためであると考えられます。

そして三か所の中の一つである野々宮神社は、Googleマップには、八幡宮と載っています。
ここは三箇大聖堂が建っていた跡地であり、ここでキリシタンは処刑されていました。
聖なる地で手を合わせると捕らえられるため、カモフラージュのために小さな祠を建てたと考えられます。
ここには一対のキリシタン灯籠があります。神社というよりは、祠のような場所です。

参考(外部リンク):大東市 キリシタン塔籠(八幡宮)

三箇城

そして三か所の中の最後の一つである、三箇城は、三箇頼照(さんがよりてる)サンチョが城主であった頃は、飯盛山(いいもりやま)頂にある飯盛山城の支城の役割を果たしていました。

『フロイス日本史〈3〉』によると、飯盛城の麓には長さ四、五里の淡水湖がありました。
頼照が異教徒だったときは、この湖のそばに小さい寺院を建てていました。
後にキリシタンとなったときに、そこを教会に変えました。

その後三千人を超える家臣がキリシタンとなったときに、そこに司祭たちが寝泊まりできる建物を付属した美しい教会を建てました。
そしてこの三箇城は、日本の教会が五畿内地方で有するもっとも堅固な柱の一つとなりました。
十五ヵ年の間、その三箇の教会で復活祭と降誕祭が祝われたそうです。
そこは『日本の歴史〈11〉』によると「布教の平和境となり、河内の聖地」であったそうです。

この15年続いた復活祭(イースター)ですが、三箇頼照サンチョは、キリストが復活されたことを華やかに祝うため、復活祭用にきれいに飾った船六十隻を用意させて、盛大な復活祭の水上パレードを行わせたそうです。

野崎まいり

そしてその「復活祭船上パレード」を復活させたものが今なお続いている「野崎まいり」なのではないかといわれています。
野崎まいりとは、現在5月1日から8日まで行われている慈眼寺(野崎観音)の行事であります。
それは、無縁仏を弔うための「無縁経(むえんきょう)法要」を行うものであります。

しかしながら、野崎観音での礼拝がキリシタン殉教の地である八幡宮に向かってなされることと、罪人を弔うにしては多くの注意が引きつけられていることからも、野崎まいりは殉教したキリシタンたちの徳を慕った礼拝なのではないかと、神田先生は考えています。

河内キリシタンの始まり

先程三箇城は、飯盛山城の支城と書きましたが、その飯盛山城は、三好長慶(みよし・ながよし)の居城であります。
三好長慶は、信長に先んじて畿内を支配していた人物であります。
そして飯盛山城は、当時、近畿地方においては日本の政治の中心のような場であったとされます。

長慶が日本でのキリスト教の布教を許可しました。
そして1563年に飯盛山城で有力な武将・大名を含めた73名が洗礼を受けます。
そこに至るまでのそもそもの始まりは、キリシタンを追放するために遣わされた論客が、キリシタン信徒と討論した結果、自身がキリシタンとなったことから始まります。
その後長慶に仕えている、その論客の長男である結城左衛門殿(ゆうきさえもんのじょう)も洗礼を受け、飯盛山城で修道士に説教をさせる機会を作ったからこそ、73名の洗礼に至ったのです。

そのときに遣わされた修道士はロレンソ了斎(りょうさい)でした。
了斎は目と足が不自由であったため、最初その容貌を見た武士たちはその見た目を軽蔑していました。
しかし、了斎は弁舌にかけては大胆不敵であったため、彼の話を聞いていた者は、たちまち納得してキリシタンとなったそうです。

そして、飯盛山麓は異教徒がいないと言われたほど「河内キリシタン」は隆盛をきわめ、「畿内キリシタンの聖地」となりました。
六千人ほどのキリシタンがいたそうです。
しかし、豊臣秀吉によるバテレン追放令あと衰退、その後きびしい迫害の時代となります。

感想

先日の記事にも書いたかもしれませんが、私が神田先生を知ったのは去年、私が悩んでいるさ中でした。
そんなとき、この人に悩みを聞いてもらえたらどれだけよかっただろうかと思いました。

佐藤宏明『躁鬱病 私の記録』レビュー【神田宏大牧師】

けれども先生はもう召天されていて会えない、寂しいと思っていました。
その寂しさを紛らわすために、神田先生の出ている動画を寝る前に何度も見ているうちに、河内キリシタンの知識が少しずつついてきたような気がします。

私は元々歴史には疎い人です。
なので、動画の中で「キリシタンといえば九州というイメージがありますが…」という説明を受けても、そういうイメージすら出てきませんでした。

そんな私の感じたことは、動画や、この本を読んでキリシタンの説明を受けるたびに、ただただ彼(女)らの信仰の厚さに頭の下がる思いがしたことでした。
私も、そういった厚い信仰をもつことができればなと思うばかりです。

また、野崎にも行ったことがありますが、のどかでいい所でした。
野崎駅に近づいてくるにつれて、山(飯盛山?)が迫ってきて圧倒されました。
これはあくまでも私の主観ですが、すごく空気がきれいで心が洗われるような気がしました。
その理由は、この地がキリシタンの聖地だったからというのもあるのでしょうか?

私にとっては縁もゆかりもない地だったわけですが、この地を知ることができてよかったと思います。

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関連記事:講演(小林義孝さん)『飯盛城と河内キリシタン』感想【神田宏大牧師】

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