中島義道『働くことがイヤな人のための本』レビュー

その他

今回は中島義道氏の『働くことがイヤな人のための本』(新潮文庫、2004年)について書いていきたいと思います。

この本の内容は「働くこと」に対して疑問をもっている引きこもりの留年生(A)、三十過ぎの未婚のOL(B)、不満を感じながらもどうすることも出来ず、ずるずると今の仕事を続けている中年サラリーマン(C)、がん告知を受け、後にそれが誤診であると分かるも、それがきっかけで生きている意味が分からなくなる元・哲学青年の会社経営者(D)といった人物との架空対話を通して、人間が「よく生きること」の意味を探求するという内容となっています。

ここに登場する人物は架空の人物ではありますが、中島氏自身こういった人とは多く会ってきたことがありますし、何よりもそういった人たちは中島氏自身の分身でもあります。

そしてその内容は、なかなか厳しいものとなっています。
あとがきの方に、「若者に『働け!』とカツを入れる本」にはならなかったと書いてありますが、私にとっては十分になっていると思います。

私はこの本の読者になりえるか

そしてなぜ、私が今回この本について書いたのかと申しますと、私自身もその「働くことがイヤな人」の中に入っていると思うからです。

そしてまた、「働くことがイヤな人」の中に入っていると同時に、私自身はまともに働くことが出来ずにいます。

私は現在発達障害を患っており、そしてその二次障害としてのうつを発症することもたまにあるため、それが原因でなかなか規則正しい生活を送れずにいます。

一時的に規則正しい生活を送ることができたとしても、唐突にうつと思わしき症状が発症することがあり、折角築き上げることの出来た規則正しい生活が、突如として壊れてしまうことがあります。

そういった症状があるため、まともに働くことができず、そして周囲のまるでプログラムされた機械のような自然さをもって社会に適合することのできる人を物凄く羨ましく感じています。
そんな風になんの問題もなく社会に適合している人を見ていると、どうしても自分と比べてしまい、どうして自分はこうなのだとよく自分を責めてしまうことがあります。

そしてまた、周囲の者からも「どうしてお前はこうなのだ」と責められ、そして辛い思いをしたこともよくあります。
私も、どうして自分はこうなのかが一向に分からずにいます。
そしてまた、解決策を求めて精神科に通い、そして自分でも少し心理学をかじったりもしていますが、一向に解決策が見えてこないという現状です。

このように、私は上手く社会に適合することが出来ず、そして解決策が見えてこないため、いつ死ぬかも分からず、私はいつ死ぬのだろうと死の恐怖におびえているのが現状であります。

そんな風に、今まで私が働くことが難しいという問題について述べてきましたが、では、もしも私の障害が治る類のものであり、そして努力の末治すことができ、社会に適合することができたのならば、私は「働くことがイヤ」という悩みはもちえないのでしょうか。

その答えは「否」であると思います。

なぜならば、現在自分の生活を賄うための賃労働をするということは、大部分の自分の時間を削られることを意味するからです。

天職を見つけた人以外、自分の時間の大部分を取り立てて興味のないことに費やされ、そして、無事に定年まで会社に居続けることが出来たとしても、定年が来ると、「もうお前には用はない」とばかりに会社に気力も体力も搾り取られた後にその会社からも捨てられてしまいます。

そしてその後年金がすぐに貰えるのであれば、まだ少しは救いがあるのかもしれませんが、年金が貰える歳は次から次へと引き上げられるということはほぼ必至であるため、もうすぐ年金が貰える歳に達する人や、既に年金を貰っている人や、十分な財産のある人以外は死ぬまで働く覚悟が必要になってくるだろうと思います。

また、たとえ年金の貰える歳が引き上げられなかったとしても、自分の気力や体力や時間の殆どを、自分のやりたくない仕事に奪い取られるという構造は、理不尽というより他はないと思います。

とするならば、「気力も体力もある間にやりたいこともろくに出来ず、えんえんとやりたくないことをしなければならない私の人生とは一体何なのだろうか」という問いが私の場合は発せられてしまいます。

ということは、私もこの本の読者としての資格を有する人間なのだと思います。

なぜならば、本書に登場してくる架空の人物A・B・C・Dは、仕事に生きがいを見出せずにおり、そして彼らの悩みの根底には「そんな自分の人生とは一体何なのだろうか」という問いがあると思われるからです。

そして、前書きには「本書は私と異なった感受性をもつ膨大な数の人には何も訴えることがないのかもしれない」と書かれているが、私自身、仕事に関する悩みを通して「人生とは一体何なのだろう」という問いが発せられているため、十分に読む資格のある者ではないかと思います。

働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫) [ 中島義道 ]

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感想(3件)

本の内容

「あなたは正しくない」

ここからは本の内容の話になってきます。

著者自身引きこもりの体験をもつ者であり、そしてまた、架空の人物A・B・C・Dもいわば著者の分身でありますので、そういった生きることの不器用な人たちに対して、「そうだ、その通りだ」「あなたは正しい」と慰める内容になっているのかと思われますが(私は初めそうなのだと思いました)内容はむしろその逆であり、大変厳しいものとなっています。

生きることが困難な人たちから出てくる問いは初めは真摯なものなのかもしれません。

だが、いかに真摯な呟きでも自分の中に閉じこもってしまうと、それはぐるぐる同じところを回るだけで、いっこうに進捗しない。病的な自己確信、病的な他人嫌悪、病的な世間恐怖……という具合に進んでゆき、もともと清潔で美しくさえあった悩みはいつしかどす黒く醜い炎に変身してゆき、自分をも他人をも焦がしてゆくのだ。

中島義道『働くことがイヤな人のための本』(新潮文庫、2004年、13頁)

また、そういった「悩みをもつ人々」は自分の中に閉じこもってしまうとその悩みから来る言葉を伝家の宝刀のように振り回し、安心しようとする。

 こうした人々のからだからは、善人以上に猛烈な臭気が立ちのぼる。まわりの者は鼻をつまむしかないんだよ。善人を裁いたその目で自分を裁くことを忘れ、善人以上にものが見えなくなって、彼らは転落していく。怠惰と欺瞞という、彼らが最も嫌ったはずの悪徳に向かって、まっさかさまに転落していく。

同著、20頁

まず初めに、こういったことが繰り返し述べられています。

親鸞の「悪人正機説」を誤解して、勝手気ままな悪行を重ねたあげく「俺は悪人だ、だから救われる」と奢り高ぶる人に対し、『歎異抄』の作者は「本願ぼこり」と名づけました。

それと同じように、働くことに疑問を感じている者は「俺はこういった高尚な悩みをもっている。だから正しい」と居直ることは本願ぼこり的であるというような指摘をしています。

このように、引きこもりの者や、仕事に疑問をもっている者は真摯な悩みをもっているのかもしれない。しかし、そういった真摯な悩みをもっているあなたは、必ずしも正しいわけではないということを、この本では繰り返し述べられています。

ここでいう「正しい」とは、「道徳的に正しい」という意味合いであり、「道徳的に正しい」とは「より道徳的である」ということなのだと了解しております。

そして著者も引きこもり体験者であり、真摯な悩みをどす黒い炎に変質させたことのある経験をもっているからこそ、「『悩んでいる自分は正しい』という態度に居直ることは正しくない」という警鐘を繰り返し発しているのでしょう。

しかし、だからといって働くことに疑問をもたずに働いている者が、道徳的に正しいわけでもない。彼らの中にも引きこもりの者と同様に、道徳的である者もいれば、不道徳である者もいるのであろう。世の中の構造を「こうである」と決めつけずに、その複雑怪奇な構造を見据えることが大切なのであろう。

しかしながら、いつまでも引きこもっていると、その者は怠惰と欺瞞という、彼らが最も嫌ったはずの悪徳に向かって、まっさかさまに転落していくことは必至であると考えられる。

だからこそ、引きこもっている者がもっている真摯な悩みを腐らせないためにも、社会に出て人々に揉まれることによって自分の悩みを鍛えるためにも、引きこもりであるA君に引きこもりから脱することを勧めるのである。

「身のほどを知らない」生き方を探求せよ

しかし、A君の仕事に対する理想は極めて高い。

そしてそれに対して「身のほどを知れ」とは言わないのが、中島義道である。

なぜならば、A君はそれほど巧みに自分をだませないということを中島氏は知っているからである。

だからこそ、中島氏はA君にみずからの欲求に耳を塞ぐのではなく、逆にその声からわずかなヒントでも見いだして、何をすべきかを徹底的に考えることを提言する。

たとえ不幸になっても「身のほどを知らない」生き方を熱心に探究することを勧める。

そしてそういった生き方は辛いけれども充実した人生であるという。

そうした生き方をしながら運よく40歳、50歳まで生き延びることができたのならば、きみは知らないうちに数々の宝を手にしているという。

そして、久しぶりにこの本を読んで、印象深かった箇所はこの箇所であるということができます。

この生き方は、こんな風に文章として記述してしまうと、簡単なように聞こえるでしょう。
しかし、実際に行ってみるならば、物凄く辛く、そして挫けてしまいそうになる生き方でしょう。
もしかすると、長く生きることができないかもしれないでしょう。

それでも、なぜかは分かりませんが、中島氏のこの文章を読んでいると、自分の欲求に従って生きてみようと思わされ、勇気が出てくるような気がします。

そしてまた、中島氏は基本的にネガティブな内容を書く作家ではありますが、こんな風に人を惹きつけ、そしてまた、勇気を与えるのが上手い作家なのだなと個人的に思わされました。

世の理不尽を抉り出す内容

そこから先の内容は、とにかく世の中の理不尽を抉り出すような内容となっています。

それは、世の中で成功しなかった人が見ると、思わず目を背けたくなる内容であると思います。

同作者の『不幸論』(PHP新書、2002年)の中では、この本に対しての、「こんな内容を見せられたら余計に働く気がなくなる」という内容の苦情の手紙が紹介されていますが、それも頷ける内容であると思います。

しかし、それは「本当のこと」であり、多くの人が目を背けたくなるような事実であるからこそ、著者はその事実を正確に語っているのだと思います。

なぜならば中島氏は哲学者であり、中島氏にとっての哲学者像とは、真実をありのままに語る者であるのだから。

そしてその目を背けたくなるような残酷な事実の中に「成功者は、成功することによってますます人格的に豊かになり、失敗者は、失敗することによってますます人格的に貧寒になる」というものがあります。

これは、われわれは成功者に対する嫉妬心から「成功者なんてずるい奴ばかりだ」と多少なりとも思いたい欲求があるからこそ、こういったことを言っているのでしょう。

しかし、中にはずるい人もいるのかもしれませんが、成功者は成功し、自分を飾る必要がなくなったからこそ、成功者はより無邪気に、より人格的に豊かになっていき、そして失敗者は、失敗することによってひねくれやすくなるからこそ、ますます人格的に貧寒になってゆくのでしょう。

そしてそれは、残酷ではありますが、認めざるを得ないことなのかもしれません。

そしてそういった話を聞き、ますます社会に出たくなくなってきたA君に対して、そういった理不尽な世界に出なければ自分の思考力は鍛えられないのだからと、著者はA君に引きこもりを脱することを勧めます。

「問う」という仕事

そしてこの本の後半では、成功することもなく、世間的に取り立てて価値のある仕事を成し遂げなかった者こそ世の中の理不尽が見えているからこそ、哲学の適性があるというようなことが述べられています。

仕事で成功した者は、「私はこれだけのことをした」と納得することによって、死を克服したと錯覚しがちである。

しかし、仕事で何の成功をすることもなく、この世に対する未練の無い者こそ、ついこの間生まれてきて、そしてもう間もなくしたら死んでしまう。そしてその短い人生の間も理不尽だらけであるという人生の荘厳さをありのままに見ることができる。

だからこそ仕事に成功しなかった人は哲学の適性があるということになる。

そしてその、ついこの間生まれてきてそして間もなく死んでしまうこの人生とは一体何なのだろうかと問うこと、つまり哲学をすることこそが人としての仕事である。

その後終末期にはそういった「真理を知りたい」という欲求すらをも断ち切ることが最後の仕事ということになる。

このあたりのことは、著者の感受性に照らし合わせてみるとそうなのかもしれないが、全ての人に当てはまることであるかどうかは分からない。

したがって賛否両論なのではないでしょうか。

とにかく生きよう

昔はこの本に書いてある哲学へのすすめを読んで感激したこともありますし、私が無事生き延びることが出来たのならば、もしかすると哲学をするかもしれませんし、しないかもしれません。

しかし、とりあえずは今のところ、私は人生の理不尽にいつ殺されるかどうか分からないという切羽詰まった状況下に置かれていますので、暫くは生きることに専念したいと思います。

そして、この本には私のような、生きたいとは思うけれども障害や私の偏屈な性格により、生きることが難しい者に対する具体的な解決策は書かれておりません。

書かれている数少ない提言の中で役に立ったものは「自分の欲求に従って生きよ。それでもし生き延びられたのならば数々の宝が与えられている」ということぐらいでした。

なのでとりあえずはその言葉を信じて、頑張って生き延びたいと考えています。

働くことがイヤな人のための本 (新潮文庫) [ 中島義道 ]

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